今や、科学技術は国力を生み出す最大の武器とされ、生命科学はその必須領域に位置づけられている。2005年には、国の科学技術関係経費、約3兆6,000億円の約12.5%に当たる4,500億円あまりが、生命科学研究に配分された。
とくに、創薬、農業、食品加工、環境浄化、医療機器開発などの分野でバイオテクノロジーが積極的に利用され、大きな経済効果をもたらしている。また、医療現場では、臓器移植、生殖工学を用いた不妊症治療、遺伝子診断、培養皮膚等を用いた再生医療、がんや遺伝子疾患に対する遺伝子治療、DNAチップを用いた診断といったように、技術発展に重きをおいた試行錯誤が繰り返されている。
生命科学研究がここまで進展した一因は、研究者が、個々の基礎研究を細分化して進めている点にある。現場では、発生、分化、増殖、免疫、神経伝達といった現象ごとに、遺伝子、生体高分子、組織、器官、個体と、さまざまなレベルからアプローチされ、対象とされる生物も、線虫、ショウジョウバエ、シロイヌナズナ、イネ、ゼブラフィッシュ、マウス、サルなど、実に多岐にわたっている。しかし、「自分の専門領域から少しはずれた分野の状況は、まったくわからない」、研究者からそのような声が上がるほど、狭い領域に特化した研究が行われているのも事実だ。
一般市民にとっては、生命科学研究はもはやSFと同義といっても過言ではない。生命科学に限らず、「国民の科学離れ」や「子どもの理科離れ」も問題視されている。ただし、市民が最新の研究や技術、情報などから隔絶しているわけではない。状況はむしろ逆で、ニュースや新聞には「万能のES細胞」、「クローン人間誕生か?」、「遺伝子診断でわかる発病リスク」、「夢のゲノム創薬」といったセンセーショナルな言葉があふれている。後述するように、日常生活においても生命科学と接する機会は意外に多くみられる。しかし、ES細胞一つとっても、それが内包する問題への理解度は大きく異なり、国によってもその受け止め方は違う(図1)。
問題は、最新の成果や技術を発信する研究者と、それを情報として受け取る市民の間に、大きな溝が存在している点にある。研究者は、激しい競争のなかで、成果を少しでもインパクトのあるかたちで発信したいと考えている。マスコミは、こうした情報の一部分をさらに強調して報道する。結果として、受け手である市民は、基礎知識のないままに断片的な情報を得ることになり、状況を正しく理解せずに自らの判断や生命観を模索することになりがちだ。生命科学が私たちの暮らしに深く入り込み、日常生活の質を高めると同時に、自分で判断、選択すべき場面をつくり出している点が、こうした状況に拍車をかけている。
たとえば、「バイオテクノロジーを用いた安価な野菜が発売された」、「人工授精をすれば子どもを授かるかもしれないと言われた」、「開発されたばかりの抗がん剤を試すしかないといわれた」、「わが子の遺伝子診断をすすめられた」などということは、私たちの日常にも起こりうる出来事であると同時に、生命科学研究に直結している。「処方された抗生物質が遺伝子組み換え技術でつくられていた」というように、気づかないところにも生命科学との接点が潜んでいる。
政府や自治体、市民団体は、すでにこうした点を危惧し、様々な対策を講じ始めている。例えば文部科学省では、2002年に「ゲノムひろば」と題したプロジェクトを発足させた。市民と研究者とのダイレクトな双方向交流を実現することで、ゲノム研究の意義や応用技術の可能性を理解してもらうことがねらいだ。
ただし、効果はまだ十分とは言い難い。2005年11月に、山梨大学の山縣教授らが全国の約4,000人を対象に行った調査では、「ゲノムという言葉を全く知らなかった人が30%。意味を理解している人が15%だった」としている。興味深いのは、「70%が、ゲノム研究を医療に応用することに賛成だと答えた」とする点だ。「ゲノム研究についてはよくわからないが、医療に役立ちそうなので賛成」ということなのだろうか。雰囲気だけで市民がミスリードされてしまう事態は、避けなければならない。山縣教授は新聞紙上で、「学校教育を含めて、ゲノムに接する機会を増やして、理解を深めていくことが必要」とコメントしている。
同じく文部科学省の科学技術政策研究所では、国民の科学離れを食い止めるためのシンポジウムや企画展を多く手がけている。「科学技術がブラックボックス化したことで、かつては身近であったはずの科学が現実離れしてしまっている」。同研究所の渡辺政隆上席研究官は、今の状況をそう分析している。
一方で、日本科学未来館、民間の武田計測先端知財団、NPO法人「くらしとバイオプラザ21」といったさまざま組織が、各地で「サイエンス・カフェ」と題したイベントをさかんに企画している。会場では、コーヒーや軽食を片手に、遺伝子組み換えや最新脳科学、環境問題、ナノテクノロジーなどの日常生活と深い関わりをもつ科学技術について気軽に議論が交わせるため、仕事帰りのサラリーマンや学生、主婦などに人気だという。専門家も参加するため、市民の疑問や不安にこたえる場としても機能しはじめている。
こうした試みは「サイエンス・コミュニケーション」と称され、科学技術全般の理解と、技術を用いることへの是非を判断する目を養うものとして注目されている。単なるブームで終わらせないために、各組織は、いかに広く、様々な立場の市民を取り込んでいくかを模索し続けるべきだろう。
いうまでもなく、生命科学研究に課せられた目的は「生命現象の解明」にある。その源流は、古代ギリシアに生きたアリストテレスにまでたどることができる。アリストテレスは、さまざまな生き物を観察することで、形態や現象の目的を探ろうとし、生命の正体は霊魂にあると結論づけた。この「生命は神秘的なものである」とする生命観は、17世紀に至るまで主役の座に座りつづけることになる。
18世紀以降、ようやく迎えた生命科学の黎明期には、生物が「動く装置」としてとらえられるようになり、器官、細胞、発生、増殖などのしくみが調べられていった。20世紀前半に遺伝子の概念が誕生し、1953年にワトソンとクリックによってDNAの二重らせん構造が明らかにされると、わずか半世紀足らずのあいだに、遺伝子発現、発生、分化、細胞増殖、免疫システム、神経伝達といった多様な生命現象の基本的メカニズムが明らかにされていった。並行して、大腸菌、線虫、ショウジョウバエ、マウス、ヒトなど、多くの生物種のゲノムが解読され、その種数は、細菌で200、動植物で40にのぼるほどになっている。
こうした爆発的ともいえる発展の末に、研究者は、生命を直接操作する術を手に入れた。科学とは「神秘的なもの」である生命を、「化学的または物理学的」に理解しようとする行為だ。私たちは理解し、生命を操作することでもたらされる利益を享受するようになり、さらなる利益を求めて過剰な期待を抱くようになっていった。
2000年以降、こうした状況の弊害が目に見えるかたちで表に出てきた。例えば、韓国、ソウル大学でおきたヒトES細胞論文のねつ造であり、国内複数の大学・研究機関で明らかになった研究データのねつ造といった不正行為だ。
新聞報道によると、発表した論文を取り下げた数において、日本はワースト4位に入っている。国際的な科学誌Natureに2005年に掲載された記事によると、研究者に対する調査の結果、回答者の3割近くがデータの不適切な管理など、何らかの望ましくない行為を行っていたとされる。論文は、その研究成果を最初に発表したものでなければ価値がない。いかにインパクトのある論文を、いかに多く世に出すかが、研究予算や研究における地位を大きく左右する。ソウル大学の事件のように、自らの一研究が「難病治療の切り札」として持ち上げられ、国家をあげての過度な期待を集めてしまうケースもすでに現実のものとなっているのだ。
私たちは、38億年にもおよぶ生命史のなかで、ほんのわずかの短い時間に、あまりにも多くのことを知り、多くの技術を手に入れ、多くのことを実現させてしまった。
その結果、「治療目的ならば、遺伝子や受精卵の操作は許されるのか」、「脳死はヒトの死といえるのか」、「個人のゲノム情報はいったい誰のものか」といった、人類がこれまでに経験したことのない倫理問題が持ち上がり、さまざまな混乱と衝突が生じている。
先人たちは「生命とはなにか」、「生きているとはどういうことか」という単純な問いかけによって生命科学を切り開いてきた。私たちは生命を人為的に操作できる時代にいながら、いまだにその問いの答えを手にしていない。この事実を再認識することが、「得られた技術を使うべきか否か、使うとしたらどのように使うべきか」といった、さらなる問いの答えを見いだすヒントになるのではないか。一人ひとりが「いのち」について考える社会こそが、生命科学の新たな扉を開く原動力になると信じたい。