体のあらゆる種類の細胞に分化できる多能性幹細胞。その一種であるES細胞やiPS細胞を培養し、任意の細胞種をつくろうとする研究が進んでいる。近年では、これらの幹細胞から各種細胞を誘導するだけでなく、生体が持つような複雑な組織や器官を構築しようとする試みも始まっている。いわば試験管内に発生環境を模倣し、発生を部分的に再現しようとする試みだ。
理研CDBの中野徳重客員研究員(器官発生研究グループ 、笹井 芳樹グループディレクター)らは、ヒトES細胞の自己組織化により、生体と同様の構造をもつ網膜組織をつくることに成功した。さらに、作成過程の網膜組織を損傷なく凍結保存する技術も開発した。この研究は、住友化学生物環境科学研究所と共同で進められ、科学誌Cell Stem Cellに6月14日付けでオンライン先行発表された。
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ヒトES細胞からの眼胞(上段)および眼杯(下段左)の形成過程。眼杯の遺伝子発現を調べると内側の層が網膜神経に分化している(下段中央)。網膜特有の層構造を形成した様子(下段右、緑:視細胞、赤:介在神経細胞)。 |
同グループは以前、ES細胞から神経系細胞を高効率に誘導する「無血清凝集浮遊培養法(SFEBq法)」を開発し、大脳皮質神経細胞、中脳ドーパミン神経細胞、小脳プルキンエ細胞などの各種細胞を誘導することに成功していた。さらに近年では、この培養法を発展させ、主にマウスのES細胞から、生体内と同様の構造をもつ大脳皮質組織や網膜組織、脳下垂体組織を誘導することにも成功していた(科学ニュース:下記リンク参照)。これらの研究結果は、多能性幹細胞が胚の外、すなわち周辺組織からの物理的な作用が無い環境でも、自律的に一定の組織を構築する「自己組織化能」を持っていることを示した。
彼らは今回、将来の医学応用を念頭に、ヒトES細胞からの網膜形成を試みた。マウスES細胞では既に成功していたため、培養開始時の細胞数や培養液の組成、増殖因子を加えるタイミングなど、各種条件をヒトES細胞用に最適化した。その条件下で、約9000個のヒトES細胞をSFEBq法によって凝集・浮遊培養すると、まず、中空状の間脳前駆組織が形成された。培養14〜17日目には、その一部が網膜前駆組織に分化し、袋状に突出した眼胞様の構造を形成した。続いて、眼胞様組織の先端部が陥入し、培養22〜26日目には眼杯様の構造がつくられ、その外側の層は色素上皮細胞に、内側の層は神経網膜に分化していた。これらの過程は生体内の眼杯形成と酷似していた。また、眼杯様組織は直径約500マイクロメートルあり、ヒト初期胎児の眼杯と同様の大きさだった。興味深いことに、マウスES細胞から誘導した眼杯は約半分の大きさだったことから、それぞれ生体内の大きさを反映していることがわかった。
誘導された神経網膜を切り出し、さらに培養を続けると、培養30日目から神経節細胞、視細胞などが次々と分化し、培養126日目には生体網膜と同じ層構造をもった網膜組織に成熟した。この組織はマウスの網膜では見られない錐体細胞(視細胞の一種)も含んでおり、ヒト型の網膜が形成されていることが改めて確認された。
網膜組織の誘導は、生体内の発生過程をなぞるように起るため、上述の通り100日を越す長期の培養が必要となる。しかし、誘導された網膜組織を網膜疾患の研究や、さらには再生医療に利用しようとする場合、必要な時に必要な状態の組織が入手できる適時性が求められる。そこで彼らは、通常の組織凍結法に独自の前処理を加え、凍結・融解しても組織損傷の少ない凍結法を開発した。これにより、一定の段階まで網膜誘導を進めて凍結保存し、必要に応じて融解し、さらに網膜形成を進めることが可能になった。
今回の研究は、多能性幹細胞が自己組織化によって生体内と同様の組織を構築し得ることを改めて示した。また、ヒトES細胞由来の網膜組織が入手可能となり、網膜変性症に対する再生医療の実現に向けて大きく前進した。笹井グループディレクターは、「多能性幹細胞がどこまで複雑な組織や器官を試験管内で構築し得るのかは、発生学的に極めて興味深く、今後も探って行きたい課題です。今回の研究が、細胞レベルではなく組織レベルでの移植を目指した次々世代の再生医療の実現に貢献することを期待しています」と語った。
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