嗅覚は、えさを探す、危険を察知する、など生命維持のために必須な行動に密接に関与している。匂いの正体は空気中に含まれる様々な化学物質であり、生物はこの化学物質を感知するシステムを嗅覚系として持っている。ハエなど昆虫の嗅覚系は非常に発達しており、匂いの情報を伝える神経ネットワークは複雑な構造をしている。匂いのもととなる化学物質は、まず嗅覚神経細胞が感知する。ショウジョウバエには嗅覚神経細胞が約1300存在し、各神経細胞はそれぞれ60種類ある嗅覚受容体のうちのどれか一つを発現している。受容体により匂い情報を感知した嗅覚神経細胞は、軸索を通じて匂いの情報を脳に伝える。嗅覚神経細胞の軸索は、同じ嗅覚受容体を持つもの同士が集まって糸球体を形成し、更に高次の脳へ情報を送り出す二次ニューロンによって匂いの情報が中継される。糸球体は約50個存在するが、そのうち、どの糸球体が刺激を受けるのか、その組み合わせでにおいの識別が行われていると考えられている。面白いことにこの50個の糸球体は、どのハエ個体でも見事に同じパターンで配置されている。このルールはどのようなメカニズムで決定されているのだろう?
このショウジョウバエの糸球体配列パターン形成のメカニズムについて、桜井研究員(神経回路発生研究チーム)らは、Wnt5シグナルを伝える二つの受容体DrlとDrl-2が重要な役割を果たしていることを明らかにした。ショウジョウバエの発生過程で二つの受容体が異なる細胞種に発現し、Wnt5に対してそれぞれ異なる応答をし、糸球体の複雑な配列パターンを形成していた。この研究成果はJournal of Neuroscience誌2009年4月号に掲載された。
ショウジョウバエを用いた研究では、人工的に変異体を作り、目的の表現型を示した変異の原因遺伝子を突き止める、という研究アプローチがよく使われる。桜井研究員らは糸球体の配置パターンが異常となるハエ変異体のひとつが、Wnt5という遺伝子に変異を持つことを見出した。Wnt5は胚発生の時期に、中枢神経系の軸索を反発的に誘導し、そのシグナルは軸索上の受容体Drlによって伝達されることが知られていた。ところが不思議なことに、嗅覚神経系におけるWnt5の変異体とDrlの変異体の糸球体配置パターンの異常は一部一致するところはあるものの、かなり違うものであった。つまり、Wnt5にはDrl以外に別の受容体が存在する可能性が考えられる。そこでDrlと同じファミリーに属するDrl-2の変異体の解析を行った。drl-2変異体には、糸球体の位置に弱い異常が確認されたが、DrlとDrl-2の二重変異体はWnt5変異体とよく似た表現型を示した。このことから、糸球体発生にはWnt5の受容体としてDrlとDrl-2の両方が存在すると考えられる。
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図1
ショウジョウバエの嗅覚一時中枢野生型(左)とWnt5変異体(右)とでは糸球体(V,VL1,DA1など)の配置パターンが異なる。 |
Wnt5とDrlの変異体の糸球体配置が互いに異なるもうひとつの理由は、Drlが持つWnt5シグナルに対する拮抗的な抑制機能による。Drlは一部の神経細胞とグリア細胞で発現しているが、グリア細胞で発現するDrlが抑制機能を持つ事が示されている。ここで、DrlとDrl-2は同じファミリーのよく似たタンパク質であり、双方の機能がオーバーラップする可能性もある。DrlとDrl-2は嗅覚神経系における発現パターンが異なり、Drl-2は嗅覚神経細胞の軸索に存在する。そこで、drl変異体で、Drl-2を本来Drlが発現する場所=グリア細胞に発現させたところ、Drl-2はDrlの拮抗的抑制機能を代償することが分かった。このことから、DrlとDrl-2はWnt5に対してそれぞれ相反する機能を持ち得るが、それは発現する細胞に依存することが示された。
以上の結果より糸球体の発生では、発現場所が異なるDrlとDrl-2がそれぞれ機能上の役割分担をして正確な糸球体の配置パターンを調節していることが分かった。しかし、Wnt5の受容体はDrlとDrl-2以外にも考えられることから、このシグナルの全貌を明らかにするには他の受容体の同定も必要である。また、このように一つの受容体が細胞種によってシグナルに対し相反する機能を持つというシステムは、他のシグナルにも存在する可能性が考えられる。細胞間の情報伝達は分子の数以上に複雑なものであり、それを解明することにより、研究者は生命システムの精妙さにあらためて触れることになるだろう。
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