Wntシグナルが哺乳類の網膜再生を促進 |
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哺乳類の中枢神経系は一度障害を受けると再生しない、と長い間考えられてきた。しかし近年、成体の海馬や網膜もわずかながら再生することが明らかになりつつある。網膜は外科的に最もアクセスしやすい中枢神経であり、また、多くの視覚障害がその変性に起因していることから、網膜再生の研究は特に注目を集めている。これまでの研究で、網膜が再生する際にはミュラーグリアと呼ばれる非神経系の細胞がいったん脱分化し、網膜神経に再分化することが示されている。しかし、確かに再生はするものの、その細胞数はわずかであることも事実だった。
理研CDBの小坂田文隆研究員(網膜再生医療研究チーム、高橋政代チームリーダー)らは、ラットなどをモデルにした研究で、Wntシグナルの活性化が網膜の再生を強く促進することを明らかにした。培養した網膜に分泌タンパク質であるWnt3aを添加すると、脱分化したミュラーグリアに由来する網膜神経前駆細胞の増殖が、約20倍にまで高まったという。この研究は、高橋チームリーダー、小坂田研究員らが京都大学在籍中から進めてきたもので、今回、米国の科学誌The Journal of Neuroscience誌に4月11日付けで発表された。
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傷害を受けた網膜にWnt3aを投与すると、ミュラーグリア由来の網膜前駆細胞の増殖が促進される(矢印)。 |
「臨床応用を考えると研究はまだ初期段階と言わざるを得ません」、と小坂田氏は前置きした上で、次のように続ける。「私は薬理学の出身なので今回の研究成果を非常に興味深く見ています。再生医療といえば細胞移植が頭に浮かぶかも知れませんが、今回の研究は、Wntシグナルを活性化する薬剤の投与によって、細胞移植をせずに網膜が再生できる可能性を示しています」。
彼らはラットを用いた以前の研究で、網膜を傷害するとミュラーグリアがより未分化な状態へと脱分化することを明らかにしていた。しかし、脱分化して網膜の再生に機能する細胞は極わずかだったため、この効率を改善するための因子を探索してきた。彼らは数多くの候補因子を検討したうえで、Wntシグナルに注目して研究を進めることにした。Wntシグナルは体軸形成や脳形成など、発生のさまざまなステップで重要な役割を果たすとともに、幹細胞の自己増殖にも機能すると考えられている。彼らは今回、培養したラット網膜を傷害し、そこにWnt3aを直接添加することで、ミュラーグリアに由来する網膜前駆細胞の増殖率を飛躍的に上昇させることに成功した。さらに、視細胞の発生・分化に必要なレチノイン酸を添加すると、増殖細胞は視細胞が存在する網膜の外顆粒層に移動し、視細胞に分化することも明らかとなった。
続いて彼らは、傷害の有無とWntシグナルの活性化との関係を調べた。すると、無傷の網膜ではWntシグナルの活性化がみられないのに対し、傷害を受けた網膜ではWntシグナルの活性化が認められた。また、Wntシグナルを抑制する因子Dkk-1を投与すると、傷害後の網膜再生が抑制されることも明らかとなり、Wntシグナルが網膜再生に働いていることが強く示唆された。そこで、Wntシグナルの下流で抑制されるGSK3βの阻害剤を投与したところ、Wnt3aを投与した時と同様の再生促進効果がみられた。
もう一つの重要な発見は、変性過程にある網膜でもWntシグナルの活性化によって再生を促進できるという結果だ。視細胞の生存・維持に必要な遺伝子の異常が原因で視細胞が徐々に変性・脱落してしまう網膜色素変性など、治療法の確立されていない網膜疾患が数多くある。彼らは遺伝的に網膜が変性する疾患モデルマウスを用い、網膜変性が完成する前の網膜では、Wnt3aおよびレチノイン酸の添加が、傷害後の網膜再生と同様に有効であることを明らかにしている。
彼らはサルの網膜においても、傷害後に増殖細胞を観察し、その細胞が視細胞へ分化することを確認している。今回の研究は、哺乳類さらには霊長類がもつ網膜再生メカニズムを分子レベルで解き明かし、臨床応用を目指すうえで重要な知見を与えたと言える。薬剤投与による治療が可能になれば、現在想定されている細胞移植による治療と比較して外科的侵襲を軽減することができ、また他人の細胞を利用することの倫理問題も回避できる。希望は膨らむが、高橋チームリーダーは「臨床応用を考えるにはまだまだやるべきことがあります。まずはヒトの生体内でも網膜再生が起こっているのか否かを明らかにする必要があり、また、再生した網膜神経や視細胞が神経回路に組み込まれて機能しているのかどうかも調べる必要があります」と話す。「いずれにしても、哺乳類において網膜再生を促進できることを示せたのはとても嬉しく、引き続きこれらの問題にも取り組んでいきたいと思います」。
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